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2022.11

2022.11.09 Wed

佐藤達哉ブログ掲載について

日頃から佐藤達哉ブログをご覧いただき、誠に有難うございます。自分のホームページとnoteの両方に掲載していましたが、

この度一括してnoteの方にのみ掲載する事にしました。今後ともご愛顧の程宜しくお願い致します。

https://note.com/tatsuyasato/

2022.07.25 Mon

アマネセル/ジョーイ・カルデラッツォ

ピアニスト、ジョーイ・カルデラッツォの2006年録音リーダー作『アマネセル』を取り上げましょう。

録音:2006年1月30日~2月2日ヘイティ・ヘリテージ・センター、米国ノースカロライナ州・ダーラム
エンジニア:ロブ ”ワッコー!” ハンター
プロデューサー:ブランフォード・マルサリス
レーベル:マルサリス・ミュージック

(p)ジョーイ・カルデラッツォ  (vo)クラウディア・アクーニャ  (g)ホメロ・ルバンボ

1)ミッドナイト・ヴォヤージ  2)シー・グラス  3)トゥーネイ  4)アマネセル  5)ザ・ロンリー・スワン  6)アイヴ・ネヴァー・ビーン・イン・ラヴ・ビフォー  7)ソー・メニー・ムーンズ  8)ワルツ・フォー・デビー  9)ララ

ジョーイ・カルデラッツォ9作目のリーダー作『アマネセル』、スペイン語で「夜明け」ないしは「日の出」の意味になります。前作02年8月録音初のソロピアノ・アルバム、『俳句』のコンセプトを踏襲し、本作もピアノ独奏が中心ですが収録9曲中4曲にヴォーカルやギターが加わり、華を添えています。
収録曲中3曲がマイケル・ブレッカーやジョーイのオリジナル曲、そしてマイケルのリーダー作でも演奏されたナンバーです。録音自体はマイケルが亡くなる約1年前、彼の体調がかなり思わしく無かった時期に行われたので、彼に認められてシーンに登場したジョーイとしては、闘病中の彼を激励する意味合いで関連曲を取り上げたと考えられます。
しかしマイケルが07年1月13日、57歳の若さで惜しまれつつ亡くなったため、翌年リリースの際にコンセプトを明確にすべく、作品冒頭に2曲続けて彼所縁のナンバーを配置したのでしょう。
リリース時にはジョーイにとって大いなる喪失感があったと思いますが、特にトリビュート・アルバムとは銘を打っておらず、またマイケル生前の演奏なので強い追悼感はありませんが、彼への日常的な思いが表れていると感じます。


ジョーイは65年2月ニューヨーク州ニューロシェル出身、ドラマーである兄ジーンの影響を受け、クラシック・ピアノからジャズに移行し、80年代はリッチー・バイラークに師事しました。彼のプレイからバイラークのテイストを度々感じ取ることが出来たのも当然の事です。その後バークリー音楽大学、マンハッタン音楽院で学びます。またこの頃はデイヴ・リーブマンやフランク・フォスターとも活動を共にしました。
マイケルとは彼が講師を務めたクリニックで知り合いました。ジョーイは自分が見つけ、ピックアップし、デビューさせたと言う自負があったのでしょう、マイケルは私にその事を度々話してくれました。そして自分のバンドに誘い入れ、87年からレギュラー・ピアニストになります。
98年ケニー・カークランドが43歳の若さで逝去し、ブランフォード・マルサリスが兄ジーンのバークリー時代のルームメイト、またブランフォード自身もジョーイのリーダー作に参加と、近しい距離を保ちながら音楽的方向性が合致していたジョーイは、パズルのピースを埋めるべく、ブランフォードのバンドにも加わることになります。その後現在に至るまで約四半世紀、ブランフォード・カルテットのピアノの椅子を暖めています。
他にもジェリー・バーガンジやリック・マーギッツァらストロング・スタイルのテナー奏者の伴奏を行う機会が多いのは、コンテンポラリーなテナー・サウンドのバッキングに長け、加えて彼のインプロヴィゼーションがテナー奏者の構築するラインと被らず、ぶつからず、かつ彼らを刺激するサムシングを持ち合わせているのに起因するので、とイメージしています。
彼のピアノトリオ作品を挙げておきましょう。ブランフォード、マイケル両バンドのドラマーを兼任するジェフ “テイン” ワッツやジョン・パティトゥッチとレコーディングした『ジョーイ・カルデラッツ』(邦題『ザ・トリオ』)、いずれも若手リズム隊を起用した11年録音『ライヴ』、14年8月録音『ゴーイング・ホーム』は出色の出来と言えます。

本作のプロデューサーを務めるのは盟友ブランフォード。これまでにも、そして以降も良好な音楽関係を続ける間柄、ここではジョーイの音楽性を俯瞰し、スタンダード・ナンバーやビル・エヴァンスの名曲を取り上げ、彼の魅力をより一層引き出しました。また新たな表現力や才覚を引き出すべく、的確なアドヴァイスや彼とのディスカッションを繰り返したことでしょう、ヴォーカリストとアコースティック・ギタリストの参加という手法を用いて、ジョーイの未出の側面を盛り込む事に成功しました。
何かのインタビューでは、彼自身様々な種類の音楽を聴き、研究し、学んだ事により可能性が広がり、マイケルの作品で演奏してきた曲も、これまでに無い全く新しい気持ちで弾くことが出来たと語っています。


それでは演奏について触れて行く事にしましょう。初めに感じるのがピアノの録音状態です。一聴抜け切らない、まるで磨りガラスの向こう側で演奏しているかの様です。ブライトでエッジが立つ、クリアネスを常に感じさせるジョーイのプレイですが、本作ではハスキーでダークな音色を聴かせており、私には味わいを感じさせる、良き方向でのアンビエントと判断しました。おそらくレコーディングで用いたホールの残響が一つの要因だと思います。
1曲目ジョーイのオリジナル、ミッドナイト・ヴォヤージ。マイケルのリーダー作96年リリース『テイルズ・フロム・ザ・ハドソン』収録のナンバーです。マイナー調で哀愁を感じさせるメロディラインは、一瞬50年代ブルーノート・レーベル辺りのアルバムに収録されているナンバーでは、とイメージさせますが、コンテンポラリーさがさり気なく際立つ名曲です。初演時ジョーイ他デイヴ・ホランド、ジャック・ディジョネットのリズムセクションによるプレイで、マイケルは新境地を開拓しました。ここでは意表をつくイントロから始まりますが、興味深いアプローチです。メロディの断片を次第に纏め上げるかのようにテンポを作り上げて行き、印象的な左手のワーク、右手のラインはオーソドックスなテイストを発しながらも随所にジョーイならではの音使いを聴かせますが、一貫してラグタイム風の、ブギウギ、ストライドピアノ的なグルーヴで演奏されます。
マイケル没翌月の07年2月、マンハッタン、タウンホールで行われたマイケル・ブレッカー・メモリアルにて、ランディ・ブレッカー、ジョーイ、ジェームズ・ジーナス、ジェフ”テイン”ワッツのカルテットでこの曲がトリビュートとして演奏されました。

2曲目シー・グラスはマイケルのナンバー、87年リリースの初リーダー作『マイケル・ブレッカー』冒頭を飾りました。この曲はマイケルのライヴで演奏される機会も殆どなく、またアルバム収録曲中若干テイストが異なるためでしょう、作品中どこに位置させるか難航した節が窺えます。曲中や巻末収録では埋もれてしまう可能性があり、ダークホースは結果1曲目と言う栄誉を獲得しました。今回シンプルに、ソロピアノで演奏された事で曲の全貌が新たになり、斬新で魅力的なメロディラインとコード進行、構成を持った曲と理解できました。
ジョーイは全ての音、コードを噛み締める様に、脱力しつつ美しく奏で、楽曲をサウンドさせています。その後のインプロヴィゼーションに於いても、時折無調の世界に足を踏み入れつつ終始耽美的にプレイし、マイケルの穏やかで優しい性格に想いを馳せるかのようです。結果まるでレクイエムであるかの様に響く演奏に仕上がりました。

3曲目トゥーネイはジョーイの作曲、アルバム『ジョーイ・カルデラッツォ』にも収録されています。そちらはピアノトリオ・ヴァージョンなので自ずとリズミックに演奏されていますが、こちらのソロピアノも全く遜色なくグルーヴを発揮し、テンポも速められ、凝縮されたビートの塊の如きプレイを展開しています。トリオでは共演者とのコンビネーションを楽しみ、独奏では気持ちの赴くままに打鍵、といったコンセプトを感じます。

4曲目アマネセルはヴォーカリストのクラウディア・アクーニャとギタリストのホメロ・ルバンボ加えた表題曲。ジョーイのオリジナルですが、マイケルの98年録音リーダー作『トゥー・ブロックス・フロム・ジ・エッジ』にてキャッツ・クレイドルというタイトルで演奏されており、アクーニャによるスペイン語の歌詞が付けられ、タイトルも変更されました。メロディの原型は殆どそのままですが、ヴォーカリストが歌唱し、アコースティック・ギターとピアノの伴奏で進行して行くので全く違った楽曲に聴こえます。マイケルのプレイも素晴らしかったですが、そちらを踏まえた上での演奏、こちらの方がより深い表現域に踏み込んでいます。
アクーニャとジョーイは05年のモンタレー・ジャズ・フェスティヴァルで出会い、彼女の声にこの曲がフィットすると感じ、彼が取り上げました。ホメロ・ルバンボのアコースティック・ギター参加が楽曲の味付けに大変貢献しており、ピアノと同時にコードワークを演奏しても決してぶつかる事無く、過剰なサウンドも回避しながら、抜群のコンビネーションを維持しています。
ドライヴする、アグレッシヴなピアノプレイが特徴のジョーイでしたが、この自曲のプレイで新たな側面を聴かせ、成長ぶりを感じさせました。

5曲目ザ・ロンリー・スワンはルバンボのアコースティック・ギターとデュオで演奏される、ジョーイ作のボサノヴァ・ナンバー。アコギのカッティングが実に心地よく、その上で気持ち良さそうにピアノを弾くジョーイ、その後入れ替わりピアノのバッキングの上で端正なピッキングによるソロを聴かせるルバンボ、ジョーイ曰くの「憂いを帯びた美」が構築されます。

6曲目アイヴ・ネヴァー・ビーン・イン・ラヴ・ビフォーはフランク・レッサー作曲による、多くのヴォーカリストやジャズマンに愛奏されたミュージカル・ナンバー。比較的早めのテンポ設定によるソロピアノ演奏、徹底的にスインガー振りを発揮します。楽曲の構造をしっかりと把握し、コード進行を再構築したかのプレイは実にスリリング、右手のラインも素晴らしいですが、左手の使い方が巧みで、師匠のバイラークを彷彿とさせるテイストを見出すことが出来ます。

7曲目ソー・メニー・ムーンズ、こちらもジョーイとアクーニャの合作です。アラン、マリリン・バーグマン夫妻作曲作詞でセルジオ・メンデスがヒットさせた名曲、ソー・メニー・スターズのタイトルに肖ったのでしょう、因みに月=衛星の多い惑星は木星で79個、土星には82個も存在するそうです。
こちらはヴォーカルとピアノのデュエットで演奏され、前半アクーニャはヴォイスとしてメロディを歌唱し、後半に歌詞を歌い展開しており、美の世界を堪能させてくれます。
ジョーイのピアノプレイもテクニカルでひたすら端正に違い無いのですが、これまであまり表出されなかった包容力や慈しみが聴こえて来ます。彼が例えば結婚して家庭を持ったとか、待ち望んだ子供が産まれた様な、人生の岐路に差し掛かったミュージシャンならではの変化を、演奏から感じ取ることが出来るのです。

8曲目ワルツ・フォー・デビーはお馴染みビル・エヴァンス作の名曲、あまりにもポピュラーなナンバーなので、取り上げたことに若干の唐突感がありますが、それを払拭すべくハーモニーやフィルインにジョーイらしいテイストを折り込み、収録の必然性を持たせています。ピアニスト誰もが多かれ少なかれ影響を受けたであろうエヴァンスの演奏、彼も例外ではありません。
ソロピアノですから当然なのですが、途中でテンポを揺らしたり効果的にフェルマータを用いたりと、比較的モノローグ的な語り口で終始プレイされ、そこからエヴァンスへの敬愛の念を聴き取ることが出来ます。ここでも左手の使い方、右手のラインに寄り添う対旋律としての動き方に、独創性を感じます。

9曲目は再びアクーニャ、ルバンボを迎えたジョーイのナンバー、ララ。こちらもボサノヴァのリズムによる演奏で、ジョーイは三位一体の美の世界をとことん楽しんでいるかの様です。この曲でも歌詞は用いられずヴォイスを効果的に使い、ピアノとユニゾン、時折り音をぶつけつつ、色彩豊かなメロディラインをサウンドさせています。普段のジョーイのピアノの音色では音のエッジが立ちすぎ、ヴォーカルとブレンドし難いことが考えられ、本作でのピアノの音色はヴォーカル、アコースティック・ギターとの共演に際しての一つの手法と捉えることが出来そうです。

2022.07.16 Sat

タイムズ・ライク・ジーズ/ゲイリー・バートン

ヴィブラフォン奏者、ゲイリー・バートンの88年リーダー作『タイムズ・ライク・ジーズ』を取り上げましょう。
録音:1988年クリントン・スタジオ、ニューヨーク
エンジニア:ドン・パルス
レーベル:GRP
プロデューサー:ゲイリー・バートン
エグゼクティヴ・プロデューサー:デイヴ・グルーシン、ラリー・ローゼン

(vib, marimba)ゲイリー・バートン  (g)ジョン・スコフィールド  (b)マーク・ジョンソン  (ds)ピーター・アースキン  (ts)マイケル・ブレッカー

1)タイムズ・ライク・ジーズ  2)オア・エルス  3)ロバート・フロスト  4)ホワイド・ユー・ドゥ・イット?  5)P. M.  6)ワズ・イット・ロング・アゴー?  7)ベントー・ボックス  8)ドゥ・テル

43年米国インディアナ州生まれのバートンは60年に僅か17歳でデビューを飾り、以降数多くの最先端ミュージシャンと充実した活動を繰り広げました。2017年に引退を表明するまで60年近く、ヴィブラフォンの第一人者として音楽界にその名を轟かせ、リーダー・アルバムを60作以上をリリースしています。
片手に2本ずつのマレットを持ち、計4本を自在に駆使します。レッド・ノーヴォが始めたこの奏法をより高度に発展、そして確立させたモダン・ヴィブラフォン奏法のイノヴェーター、片手に1本ずつのシングル・マレットでは表現出来ない速い緻密で複雑なパッセージを可能にし、さらに和音を鳴らすことでハーモニー感を伴ったメロディ、インプロヴィゼーションのラインを展開します。
伴奏時にピアノ奏者ほどの和音感(同時に鳴らせる音符の数、ヴィブラフォン自体の音域幅ゆえ)は出せずとも、独自のサウンド感でソロイストを鼓舞しました。66年頃のスタン・ゲッツ・カルテットのライヴ演奏で、既にその充実ぶりを確認出来ます。
彼が考案したダンプニング奏法、またバートン・グリップと呼ばれるマレットの持ち方は多くのヴィブラフォン奏者に取り入れられ、楽器奏法の発展にも貢献しており、実際に母校であるバークリー音楽大学で長年教鞭を執りました。
ともすると無機的に聴こえるヴィブラフォン演奏、しかも彼の場合高度な音楽性に裏付けされた論理的でテクニカルなプレイを信条とするため、よりメカニカルな印象を与えがちですが、常にパッションを内包し、寧ろ楽器が放つクールさを逆手に取るかのように透徹さ、ノーブル、知的でウイットに富んだセンスを表出しながらの自己表現を行なっています。総じてプレイに華が感じられるミュージシャンです。
本作ではジョン・スコフィールド(ジョンスコ)が参加しています。バートンを含むヴィブラフォン奏者はギタリストとの共演を望む場合が多いようですが、ギターは同時に最大6音から成る和音を提供出来ます。一方ヴィブラフォンで4本マレットの場合に最大4声、合計して10音から成る和音構成は、まさしくピアノ奏者が両手で演奏可能な数と同じになります。加えて異なった音色、倍音構成からヴィブラフォンとギターが互いに無い音色を補いつつ、緻密でより豊かなアンサンブルを表現する事が可能になります。
もちろん音楽的、そして互いの相性が大切になりますが、バートンはこれまでにもラリー・コリエル、ミック・グッドリック、パット・メセニー、ウォルフガング・ムースピール、カート・ローゼンウィンケル、ジュリアン・レイジら超個性派ギタリストたちと絶妙のコンビネーションを築き上げ、自己の音楽を邁進させました。
Gary Burton

共演者に触れて行きましょう。ジョンスコは51年オハイオ州出身、バークリー音楽大学で学んだ後、76年メセニーの後釜としてバートンのグループに参加し、自己のバンドの他、マイルス・デイヴィスのバンドを始めとしたサイドマンとしても活躍しています。先鋭的で独自なテイストのラインを駆使したインプロヴィゼーションは真に個性的、ピッキングの正確さとアウト感が半端ないラインは前衛的であるにもかかわらずどこかポップで、聴き手を容易く異次元に誘い込みます。8分音符のグルーヴ感に対する拘りが凄まじく、ここでの演奏もグルーヴ・マスターぶりを披露しています。近年はそこにレイドバックとうねりが加わり、管楽器奏者の如きタイム感を感じさせる事が多くなり、フレーズとフレーズの間の取り方にはサックス奏者がブレスを取るが如きテイストを聴かせます。ソロ中に8小節間そのまま50年代のソニー・ロリンズのソロ・フレーズを挿入したプレイを聴いた時には、先達の演奏を研究、愛聴している事を感じ、根っからのジャズマニアぶりを認識できました。
John Scofield

ピーター・アースキンは54年米国ニュージャージー州生まれ、スタン・ケントンやメイナード・ファーガソンのビッグバンドを経てウエザー・リポートのドラマーに抜擢されます。その後ステップス・アヘッドやジャコ・パストリアスのワード・オブ・マウス等、数々の名バンドでプレイを披露します。バランス感に富んだプレイが信条の彼は楽曲のカラーリング、ソロイストへの寄り添い方に長けており、プレイ中その場で最良のレスポンスを繰り出しながら演者を鼓舞し、場面を活性化させるドラミングは彼の人柄そのものです。
かつてアースキンとの共演時、彼が「やあ、こんにちは。僕はピーター。君の名前は?」「タツヤ・サトウ、テナーサックス奏者です。」「オーケー、タツヤ、今日はよろしくね。お互い演奏をとことん楽しもうじゃないか。」ワールド・クラスのミュージシャンにもかかわらず、フレンドリーで柔らかな物腰に触れられたのは、自分の音楽経験の中でも一つの財産だと思っています。
Peter Erskine

マーク・ジョンソンは53年ネブラスカ州生まれ、その後テキサスで育ちました。78年にビル・エヴァンスのトリオに加入、エヴァンス・トリオ最後のベーシストとして彼が80年逝去するまでプレイを共にしました。以降スタン・ゲッツ、エンリコ・ピエラヌンツィ、ジョン・アバークロンビーたちのバンド他、ジョンスコ、アースキン、そしてビル・フリゼールをメンバーに擁したリーダー・バンド「ベース・ディザイアーズ」での活躍、奥方であるピアニストのイリアーヌ・イリアスとの共同作業で多くの作品を残しています。知的でリリカル、クールさの中にも抒情的なテイストを感じさせるプレイは抜群の安定感を聴かせ、本作でも共演のアースキンとは気心の知れた絶妙なコンビネーションを生み出しています。
Marc Johnson

マイケル・ブレッカーについては改めて紹介する必要は無いと思いますが、本作ではバートン、ジョンスコ、アースキン、ジョンソンのカルテットに2曲のみのゲスト的参加になります。楽曲の有する豊かな音楽性もありますが、表題曲での素晴らしいテナーの音色、ストーリー性を伴った壮大なスケールを有するソロプレイから圧倒的な存在感を示し、この演奏一曲で本作はマイケルがリーダーでは?とまで感じさせてしまいます。しかしほど良き演奏曲数での参加はアルバムの絶妙なスパイスになりました。
Michael Brecker

それでは収録曲に触れて行きましょう。1曲目は表題曲タイムズ・ライク・ジーズ、キャッチーで誰もが口ずさめる美しいメロディを有したこの名曲は、我らが小曽根真氏作曲です。
小曽根氏とバートンはバークリー音大での師弟関係、多くのバートンの作品にサイドマンで参加ほか、95年『フェイス・トゥ・フェイス』01年『ヴァーチュオーシ』のデュオ2作を共同名義で発表しています。バートンの前作に該当する『Whiz Kids』(神童)に小曽根氏が参加、そこでも彼の楽曲が取り上げられており、バートンは本作のためにも小曽根氏に2曲作曲を依頼したそうで、その内の1曲がこちらです。
冒頭ジョンスコのトレモロから始まりますが、曲中でも延々とインド音楽のドローンのように継続して演奏されます。途中微妙なニュアンスや強弱が施されますが一貫した味付け、アレンジを感じます。
程なくマイケルのふくよかさと逞しさを持ち合わせた音色によるメロディ奏が開始されます。音域の幅が誰よりも広い彼のプレイですが、本曲はテナーサックスの器楽的に美味しい音域をカヴァーした旋律を有するゆえ、吹き伸ばしが多い部分に繊細にして巧みなヴィブラート、ニュアンス付け、音色の変化を容易に施す事が出来、類をみない名曲のメロディを別次元にまで昇華させています。
サポートするリズムセクションの演奏がまた素晴らしいのです。バートンのさりげなくも的確なコードワークを伴ったフィルイン、ジョンソンの針の穴を通すかのように正確なビートの位置、そして立役者はアースキンのプレイです。ドラムのパーツ各々が有する音色を巧みに活かし、合わせつつ、柔らかいビートで包容力ある徹底したカラーリングを聴かせます。
マイケルの事が大好きなアースキン、レコーディングやコンサートの休憩時にはまるで忠犬のように彼の後をついて回ったそうですが(笑)、録音中はさぞかしブース内にてニッコニコ顔でドラムを叩いていた事でしょう。
テーマ後バートンがソロを取り、ジョンスコのドローン・ライクなバッキングの上でフローティングなサウンドを聴かせます。ジョンスコがこのような形態でサポートをするのは珍しいかも知れません。その後マイケルのソロに続きますがまさしく真打ち登場、短いセンテンスを積み重ねじわじわと盛り上げて行く様は圧倒的です。そして構成力、起承転結を踏まえたバランス感の妙、途中フラジオ音が珍しく上手くヒットしないのはご愛嬌です。
レコーディングに際して可能な限り前もって譜面や音資料を入手し、予習を怠らないマイケルですが、ここでの演奏はぶっつけ本番のようにも聴こえます。作られたり練られた感のあるラインが少なくいずれも自然発生的、キーの難しさがあるかも知れません、演奏中試行錯誤を繰り返しながらのアプローチを感じます。
絶好調時のマイケルはもちろん素晴らしく、これまでにも幾多の名ソロを残していますが、ここでのトライ・アンド・エラーを伴ったプレイには寧ろヒューマンさを感じ、故に何度耳にしても飽きの来ない味わいを聴かせています。
アドリブのラストには圧倒的な32分音符のフレージングが用いられますが、この安定感、精度はマイケル以外の誰も演奏することの出来ないテクニックに由来します。


2曲目オア・エルスはアレンジャー、コンポーザーのヴィンス・メンドーザのナンバー。ヴィブラフォンによるユニークなメロディ奏、こちらがコールとなり、レスポンスとしてギターを中心としたアンサンブルがあります。知的にして深淵なサウンドを聴かせるコード進行、リズムセクションのシンコペーションが多用されたプレイは、このカルテットの真骨頂です。
アドリブソロでもヴィブラフォンとギターの2小節の熱いバトルが延々と繰り返され、アースキン、ジョンソンの好サポートを得て猛烈な音空間が支配します。引き続き同じセクションでドラムソロが展開されますが、限られた楽曲のパーツを巧みに用いた構成となります。短くラストテーマを迎えFineとなります。
Vince Mendoza

3曲目ロバート・フロストはベース奏者にして作曲家のジェイ・レオンハート作の美しいバラード。タイトルはレオンハートのバークリー音大でのクラスメートの名前だそうです。リラックス感溢れ、都会的センスを湛えたこの曲は作品のチェンジ・オブ・ペースに一役買っています。メロディをヴィブラフォンが担当し、楽曲の持つ可憐さに合致しているように聴こえます。
ジョンスコのギターソロが先発、ここではコンテンポラリー系のアプローチを潜ませ、ブルージーに歌い上げていますが、実は彼にはお手のもので、彼はロック、R&B、ニューオリンズ、ゴスペル、ジャム・バンドのテイストも内包しています。
Jay Leonhart

4曲目ホワイド・ユー・ドゥ・イット?はジョンスコのナンバー、81年録音の彼の作品『シノーラ』にも収録されています。ここではオリジナルテイクよりも幾分遅く演奏され、ジョンソン、アースキンのグルーヴが実に的確で、ダークかつヘヴィーなテイストを感じさせます。バートン、ジョンスコ、ジョンソンと各々短めに、しかし自己表現を怠らず各々の存在感を提示しながら、曲が進行しています。
Shinola/John Scofield

5曲目P. M.はチック・コリアのナンバー、作曲者自身はこの曲を未演奏だったそうです。バートンとコリアは長年に渡りデュオ活動を含むコラボレーションを展開、72年録音『クリスタル・サイレンス』を皮切りに多くの作品をリリースしました。
コリアらしいリズムが随時変化して行く構成のナンバー、その際のきっかけになるラインが印象的です。メロディのジョンスコ、バートンが担当するパートの仕分けが明瞭ですが、バートン曰く先入観なしで演奏を試みたそうです。ベース、ドラムのステディなプレイ、バートンの安定感、そしてジョンスコの入魂ぶりが際立ちます。
Chick Corea

6曲目ワズ・イット・ロング・アゴー?は本作唯一のバートン作曲ナンバー。ボレロのようなルンバのような、レイジーでスローなラテンリズムから成り、ドラマチックな構成を有します。マイケルのテナーが活躍しますが1曲目とは異なり、テナーの高音域をフィーチャーした楽曲はエキゾチックに、ムーディに展開され、コード進行やサウンドとは裏腹に、マイケルのセクシーな咆哮が魅惑の中南米音楽を表現しているが如きです。


7曲目ベントー・ボックスは本作中もう一曲の、小曽根氏作曲の軽快なテンポのスイングナンバー、ジョンスコがソロの先発、その先鋭的なプレイに対し、バートンのバッキングを中心にリズム隊がアグレッシヴに攻めつつサポートします。アースキンのバスドラムのアクセントが印象的で、低音によるサポートには包容感も感じさせます。続くバートンのプレイはリズミックで安定感満載、ジョンソンのソロも楽器のコントロール、タイム共に申し分なくスインギーに展開されます。
Makoto Ozone

8曲目ドゥ・テルはジョンスコ作曲による早いテンポのワルツ・ナンバー。起伏に富んだ構成はラストを飾るにふさわしいと思います。バートンがソロ先発を務めますが、ジャジーなフレージングのバックで3連符が鳴り続けるアースキンのドラミングには、エルヴィン・ジョーンズのテイストを感じます。ジョンソンのプレイも様々なラインを縦横無尽に繰り出しますが、アースキンとのコンビネーションの良さがあるからこそです。ジョンスコのソロはバートンの最後のフレージングを受け継いで始まります。粘りのある8分音符から繰り出されるグルーヴは実に魅力的にサウンドします。ジョンソンのソロ後にラストテーマ、アウトロで再びバートンがプレイし、前半のテイストとは違ったアプローチを聴かせ、アースキンも果敢に対応します。

 

2022.06.22 Wed

トゥ・ブロックス・フロム・ジ・エッジ/マイケル・ブレッカー

マイケル・ブレッカーのリーダー作『トゥ・ブロックス・フロム・ジ・エッジ』を取り上げましょう。

1998年アヴァター・スタジオ、ニューヨークにて録音
レーベル:インパルス
プロデューサー:マイケル・ブレッカー&ジョーイ・カルデラッツォ

(ts)マイケル・ブレッカー  (p)ジョーイ・カルデラッツォ  (b)ジェームス・ジーナス  (ds)ジェフ ”テイン” ワッツ  (per)ドン・アライアス

1)マダム・トゥルーズ  2)トゥ・ブロックス・フロム・エッジ  3)バイ・ジョージ  4)エル・ニーニョ  5)キャッツ・クレイドル  6)ジ・インペイラー  7)ハウ・ロング・ティル・ザ・サン  8)デルタ・シティ・ブルース

彼の5作目に該当するアルバムです。当時率いていたレギュラー・カルテットに盟友であるパーカッション奏者、ドン・アライアスを迎え、自身やメンバーの魅力的なオリジナルを収録した作品、それまでがマイケルの魅力を引き出すべくジャック・ディジョネット、チャーリー・ヘイデン、ハービー・ハンコック、マッコイ・タイナー、パット・メセニー達とのオールスター・セッションが中心で、いずれもがジャズ史に残る素晴らしい作品揃いです。
決して肩肘を張ってはいませんし、背伸びや誇大なデコレーションは行われていませんが、ジャズ界のレジェンドの胸を借りてプレイをする様には何処か「あらねばならぬ」感が表出していたように感じます。プレイヤーとしての資質は全く申し分ないのですが、ジャズ界にレイト・カマーとしての参入には、生真面目なマイケルとしてはどこか負い目を感じさせる時がありました。
本作は自己のバンドによる演奏と言う事でリラックスしつつ、信頼おけるメンバーとの共演をとことん楽しみながらサウンドを味わい、彼らとの一体感を発揮した演奏に終始し、気負う事なく自然体で音楽に取り組んでいるのが伝わって来ます。
百戦錬磨で数々の修羅場をくぐり抜け、多くのミュージシャンたちと膨大な数の演奏を残し、しかもいずれもが前人未到のクオリティと言うマイケル、有り得ないほどのテクニックと音楽性から時にはまるでマシンの如き性能を発揮し、どんな状況下に於いても確実な演奏が出来るヒューマン・ビーイングでしたが、90年代以降はより感情移入に成熟ぶりを見る事が出来ます。それだけにゆったりとしたおおらかな気持ちで演奏に臨む必要性があります。意外にも(当然かも知れません)プレシャーに弱いマイケル、そこに横たわる何かに捉われ、演奏中に気持ちが入り辛い状況を感じた事が幾度かあります。
しかしここでは逆に手が付けられないほどに音楽にのめり込んでおり、全体を俯瞰しつつ大胆で深淵なプレイを聴かせています。自宅に気心知れた友人たちを招き入れたホームパーティでの、寛ぎに満ちた他愛の無い会話を楽しんでいるが如きです。
95年のヘルシンキでのライブ演奏を収録したアルバム『UMO・ウイズ・マイケル・ブレッカー:ライヴ・イン・ヘルシンキ1995』、地元のビッグバンドに彼が客演した形ですが、メンバー全員がマイケル・フリークと言って良いでしょう。コンサートの企画から構成まで全てを自分達が行なっていると考えられ、微に入り細に入り彼をサポートし、加えてオーディエンスの熱狂的なアプローズに支持され、彼の音楽史上有数の名演奏を繰り広げています。
恰も「マイケル、我々はあなたのプレイを心より待ち望んでいました。さあ、今宵は何も考えずひたすら演奏に集中し、徹底的なブロウで我々をとことんノックアウトしててください!」と宣言されたかのようで、20人近いビッグバンドのメンバーと大勢のスタッフ、数千人規模の観客が渾然一体化したかの如き興奮の坩堝、カリスマ・ミュージシャンを頂点とした手作りコンサートは大成功を収めましたが、これはマイケル効果の最たるものと言えましょう。
両作は彼のリラックス度が演奏をどれだけ高めるのかを説明する、絶好のショウケースとなりました。

これまでのリーダー4作品の内容に短く触れ、本作にまで至る過程を見る事にしましょう。
初リーダー作『マイケル・ブレッカー』は87年録音、膨大なスタジオ・レコーディング量に比し自身のリーダー作が未発表というギャップから、ファンに渇望されつつも本人の多忙さとアルバム・コンセプトの具体化が遅延した事で伸び伸びとなり、まさに待望の作品となりました。期待を裏切らない演奏内容、人選がその後の彼の音楽的方向を決定付けたと言えましょう。
パット・メセニーの名作『80/81』の参加メンバーが母体となり、EWIの使用は見られるものの、ストレート・アヘッドなアコースティック・プレイがザ・ブレッカー・ブラザーズ・バンド(BBB)に代表されるフュージョン・テイスト表出とのギャップを感じましたが、「やはりこの人はジャズを演りたかったのだ」と素直に納得させられました。88年度グラミー賞にノミネートされます。

翌88年リリースされた2作目『ドント・トライ・ディス・アット・ホーム』は前作の延長線上にありヘイデン、ディジョネット、そして以降晩年までの付き合いとなるハービー・ハンコックの起用や、アコースティック、フュージョンどちらも演奏可能なメンバーを擁した、マイク・スターンを筆頭とする当時の彼のバンドのメンバーを分散しつつ参加させ、曲の持つカラーに適宜対応させています。89年度のグラミー賞を受賞しました。

90年録音の3作目は一転してフュージョン・テイストがメインとなった作品『ナウ・ユー・シー・イット…(ナウ・ユー・ドント)』、本作からジョーイ・カルデラッツォが参加します。ドン・グロルニックがプロデューサーとなり、マイケルがワン・ホーンでフュージョンをプレイするにあたり、兄ランディとは全く異なるアイデアを表出させたアルバムとなりました。

96年録音4作目は再びオールスター・セッション要素を盛り込んだ名作『テイルス・フロム・ザ・ハドソン』。ディジョネット、メセニーが返り咲き、加えてデイヴ・ホランド、そして念願のマッコイ・タイナーの参加が光ります。彼とはその後親密な関係を築き、マッコイのアルバムへの参加、膨大な本数のツアーも実現します。「マッコイは僕に本当に良くしてくれている」とはマイケルの弁、かつてのボス、ジョン・コルトレーン役を全信頼を置いて一任されました。収録曲がいずれも珠玉の名曲揃い、マイケル作「スリングス・アンド・アローズ」「アフリカン・スカイズ」他メセニー、ジョーイのオリジナルもカラフルさを添えており、本作もグラミー賞の栄冠に輝きました。胸のすくような演奏揃いの、彼の代表作に挙げられる名盤です。

前作から2年を経て98年に録音されたのが本作『トゥ・ブロックス・フロム・ジ・エッジ』、子飼いのカルデラッツォ、BBBでエレクトリック・ベースを巧みに操っていたジェームス・ジーナスがコントラバスに持ち替え、そしてマイケルとの共演で超弩級ドラマーへと変身を遂げたジェフ ”テイン” ワッツ、マイケルの音楽史の中で最もコンビネーションと音楽性のバランスが取れたカルテット、そしてパーカッショニストで加わるのが、彼の音楽に誰よりも相応しいカラーリングを提供する名手ドン・アライアス。
当時習得の度合いが半端なかったEWIの使用を前作同様に封印し、テナーサックスのみで行った演奏は彼のジャズ・プレーヤーとしての本質に徹底的にフォーカスしました。
それでは演奏内容について触れていきましょう。


1曲目「マダム・トゥルース」、アライアスのパーカッションによるセカンド・ラインのリズムから始まります。当時流行っていたリズムをキャッチーに取り上げました。程なく力強く立ち上がりの良いベースライン、芳醇な音色を有したマイケルのテナーがスタートしテーマ奏に。これは新機軸、実にユニークなサウンド、メロディ・ラインを湛えた楽曲です。その後ソロに入りセカンド・ラインからスイングのリズムへと移行します。最小限のピアノ伴奏だけで存分にマイケルがブロウします。コード進行はトラディショナルなブルース・フォームですが、常に新たなアプローチを模索する彼、クリエイティヴにしてハイパー・テクニックを駆使した猛烈なインプロヴィゼーション、冒頭から新生マイケルを宣言してます。続くピアノソロも短いながら確実な自己主張を表現、続いて彼の楽曲には珍しいセカンド・リフ、チュッティ・パートがプレイされ楽曲構成をしっかりと引き締めています。ラストテーマを迎えショート・ヴァージョンながらソリッドなオープニングとなりました。


2曲目「トゥ・ブロックス・フロム・エッジ」は本作録音の少し前、96年6月に48歳の若さで逝去したドン・グロルニック、マイケルがニューヨークに進出してきた頃からの音楽的パートナーですが、その彼に捧げられたナンバー。彼の口癖の一つをタイトルにしました。アップテンポのスイングによる、基本的にワン・コードをメンバー全員とのフリー・インプロヴィゼーションにより展開していくフォーム。『ドント・トライ・ディス・アット・ホーム』表題曲に通じるコンセプトですが、その時から10年を経たマイケルの音楽的成長、柔軟性を聴き取ることが出来ます。気心の知れたメンバーとのプレイならではの産物かも知れません。続くカルデラッツォのソロにも凄まじい集中力を感じるのですが、この二人は同じ音楽的ベクトルを描きつつも、互いを補う部分も併せ持つ抜群のコンビネーションを示しています。


3曲目はカルデラッツォ作「バイ・ジョージ」、以降4、5曲目と彼のナンバーが続くのでジョーイ・コーナーとなります。
ジャズっぽさと幾分のポップさを感じさせるいかにも彼らしい佳曲、本作のために書かれたかのようにも感じます。テーマ時に聴かれるワッツのフィルインはそのリズムのタメ具合からエルヴィン・ジョーンズを彷彿とさせ、本編でも随所にそのテイストを発揮しています。エルヴィンのプレイがフェイヴァリットで、自身の叩くドラミング・スタイルもまさしくエルヴィンのマイケル、ワッツのここでのグルーヴにはさぞかしニンマリとさせられた事でしょう。


4曲目「エル・ニーニョ」、マイナー調のキャッチーなメロディにコンテンポラリーなコード進行が施された魅力的なラテン・ナンバー、ワッツのラテン・ブルーヴは本職と見紛うばかりです。更にテーマやソロ中、場面が変わる毎にアライアスのカラーリングが絶妙に変化し、ピアノ・バッキングのグルーヴ、モントゥーノも適宜完璧なまでに対応しており、全てが緻密にアレンジされているかのようですが、自然発生的なプレイはこれぞレギュラー・グループのみが成し得るバンド・サウンドです。
マイケルもお気に入りだったのでしょう、ユニークなこの楽曲をライヴで事ある毎に演奏していました。コンポーザーであるカルデラッツォを紹介する時には「エル・ニーニョ、ヒムセルフ!」と最大級の賛辞で(笑)迎えていたのが印象的です。
ここでの余裕綽々なマイケル・ソロには本当にやられました!ダイナミクスとソロの起承転結、何より大きなウタを感じさせるのですが、一音たりとも機能しない、無駄な音符が存在せず、こちらも予め書かれたアドリブの様にさえ聴こえてしまいます。
テナーソロ後半に行われているオーヴァー・トーンを駆使した奏法はコルトレーンがシーンに紹介し、ジョー・ヘンダーソンが具体化に一役買いましたが、マイケルが洗練させ、明確な奏法として確立させたもの。特殊奏法を自身のフレージングに用い、テクニックの一部にしようとする強い意志に加え、難易度の高さをものともせず確実に演奏し、音楽的なセンスを伴い、リスナーに訴えかける次元にまで習得するのには器用さ、情熱、才能が間違いなく必要です。こちらは猛烈なインパクトを伴いますが、本作8曲目ではその最終型を聴く事が出来ます。


5曲目キャッツ・クレイドル、カルデラッツォのリリカルな側面を垣間見ることの出来るナンバーです。作品中のチェンジ・オブ・ペースに一役買いました。タイトルの意味する「猫のゆりかご」にしてはメランコリックさが際立ちますが、ピアノ、テナー、ベースとソロが続き曲想の中にステイしつつも埋没することなく、各々の音楽的主張をナイーヴに表現したテイクに仕上がりました。


6曲目ジ・インペイラーはワッツのナンバー、これは渾身の名曲です。メロディ・ラインの独自性、コード進行やサウンド感、スイングとラテンが絶妙に交差する曲構成、無条件に彼の作曲家としてのセンス、才能に敬服し、同時に楽曲のカラーリング、ソロイストのサポート、寄り添い方の巧みさ、いずれを取ってもジェフ “テイン” ワッツという音楽家を再認識させられます。マイケル、カルデラッツォのハイパー・プレイに続きワッツ自身のドラムソロも収録されていますが、さすがの難曲です、抜群のタイム感の彼らをして、曲の開始時に比べて終盤ではかなりテンポが速くなりました。


7曲目ハウ・ロング・ティル・ザ・サンはマイケル作のバラード、美しいメロディには幾重にも練られたコード進行が施され、そこでの緊張感とリリースされる安堵感が交錯します。魅力的なナンバーにマイケル、カルデラッツォともイメージを膨らませ、果敢に、しかし脱力を伴いインプロヴィゼーショに取り組んでいるように聴こえます。


8曲目デルタ・シティ・ブルースは本作白眉の演奏、月並みな表現で恐縮ですが、初めて聴いた時には腰を抜かすほど驚きました(笑)。
アルバム・リリース直後の来日時に「どうやってこの曲のアイデアを思い付いたの?」と本人に尋ねたところ、「いや、単に練習していてアイデアが浮かんだんだよ」といつもの謙虚さを交えた返答でした。
冒頭のアカペラはホンカー・テイストによるダブルタンギング、ベンドを用いたプレイ、低音と中音域を交差させつつの8分音符により既にビート感、グルーヴ感が聴こえます。リタルダンドしつつ更に深いベンドの後、少しの間を置きテンポを幾分落として本編がスタートします。ここではオーヴァートーンを駆使しつつ、何とブルースのコード進行がはっきりと聴こえるではありませんか!オーヴァートーンによる音色の違いから弱拍、裏拍音符にアクセントが付きグルーヴが生じています。それにしても完璧なオーヴァートン・コントロールの凄まじいこと!
アカペラ1コーラス後、リズムセクションが加わり驚異的なリズム感を伴いつつ、これまでに聴いた事のないアンサンブルが始まります。ニューオリンズ風リズムからスイングに移行し、ピアノが対旋律を演奏します。ドラムのアクセント、イーヴンなテナーの8分音符ラインとベースのウォーキングのコンビネーションの妙、実は全てがコロンブスの卵的発想。マイケルのプレイは全く新しいものを産み出すと言うよりも、既存の事象に斬新なアイデアを盛り込み(実現させる際には確実なテクニックと猛練習が必要ですが)、表現することに長けているミュージシャンと再認識しました。
ここでのサックスソロも素晴らしいのですが、何しろ曲のインパクトが物凄く、うわの空状態で耳を素通りしてしまいそうです。

以降もマイケルの快進撃は留まるところを知らず、翌99年にはラリー・ゴールディングス、パット・メセニーの二人を軸に念願のエルヴィン・ジョーンズほか、ジェフ・ワッツ、ビル・スチュワートの3大ドラマーを迎え、彼らと3曲づつを共演した『タイム・イズ・オブ・ジ・エッセンス』をリリースします。彼のリズム、タイム感に対するこだわりを3人のドラマーとの共演で具現化しました。

2022.03.24 Thu

ウイ・ウォント・マイルス/マイルス・デイヴィス

今回はマイルス・デイヴィスの81年録音、翌年リリースのライブ作品「ウイ・ウォント・マイルス」を取り上げてみましょう。70年代中頃から活動を中断、6年近いブランクからの復帰演奏です。若手の精鋭達を擁した白熱のステージ、マイルス自身体調万全とは言えませんが、彼が発するオーラによりサイドマンのポテンシャルは引き出され、その集約力には凄みさえ感じられます。
録音:1981年6月27日、7月5日、10月4日
会場:キックス/ボストン、エイヴリー・フィッシャー・ホール/ニューヨーク、西新宿特設ステージ
レーベル:コロンビア
プロデューサー:テオ・マセロ

tp, key)マイルス・デイヴィス   ts, ss)ビル・エヴァンス   g)マイク・スターン   b)マーカス・ミラー   ds)アル・フォスター   pec)ミノ・シネル

CD1   1)ジャン・ピエール   2)バック・シート・ベティ   3)ファスト・トラック   CD2   1)マイ・マンズ・ゴーン・ナウ   2)キックス

マイルス諸作の中で異色のライブ・アルバムです。69年録音の問題作にして傑作「ビッチェズ・ブリュー」に端を発する、エレクトリック・マイルスの進化系と言えましょう。カオス的なリズムの洪水の中で彼のトランペットが咆哮する一連のスタイルから、ブランクを経てある種のクールダウンを得たのかも知れません、またライブ録音と言うこともあるでしょう、16ビート、ファンクのテイストを保ちつつジャズ的な要素が舞い戻っています。マイルスの一挙手一投足を確実にキャッチし、これを起爆剤にした痛いほどに研ぎ澄まされた強力なインタープレイの応酬。体調不良からトランペットの音をヒット出来ず、もどかしさを隠しきれないマイルスですが、プレイのイメージは間違いなく見えており、サイドマンがそこを確実に汲み取り代弁し、更に何倍にも増幅させているが如きプレイの数々。衰微とは言えリーダー・マイルスの存在感は圧倒的です。加えて凄まじいエネルギーの放出量を感じさせるマイク・スターンのギター・ソロ、炸裂するビル・エヴァンスのソプラノ 、様々な色合いを巧みに聴かせるミノ・シネルのパーカッション、全信頼を置かれた堅実、安定した中にも抜群のカラーリングを聴かせるアル・フォスターのドラミングが光り、実は何より若干22歳マーカス・ミラーのエレクトリック・ベースが影のバンマス状態で、要所を引き締め、場面活性化、転換を画策しながらバックアップし、バンドのグルーヴを打ち出しているのです。

本作は晴天の霹靂で出現した作品ではありません。前年リリースされたカムバック作「ザ・マン・ウイズ・ザ・ホーン」、こちらの演奏がオリジンになります。異なるメンバーによるセッションも含まれますが、それ以外はほぼ同一のメンバーによるスタジオ録音になります。

マイルスの70年代はライブ録音が殆どだったこともあり、74年作品「ゲット・アップ・ウイズ・イット」以来のスタジオ・レコーディングです。新進気鋭のサイドマンを擁する本作、ビル・エバンスは師であり、マイルス・バンド経験者デイブ・リーブマンの推薦、マイク・スターンはそのエバンスの紹介、ミノ・シネルはニューヨークのジャズクラブの演奏で認められ、マーカス・ミラーは噂を聞き付けたマイルスにやはりスカウトされました。古参のアル・フォスターは73年作品「イン・コンサート」からの共演歴を持ち、70年代マイルスのブランクを経ても本作、ライブ盤に登用され、以降も晩年の89年まで専属ドラマーを務めましたが、この共演歴はマイルス史上最長になります。
クリエイティブな音楽を演奏するにはイメージ、センス、経験がもちろん大切ですが、何よりも気力に満ちた精神、健康状態、体力が不可欠です。いくらマイルスでも全くトランペットを吹かない、当初は病気療養のための活動休止でしたが、次第にドラッグと女性に溺れ、結局怠惰な生活を6年間も送ってしまいました。その直後では、自身の健在ぶりをアピールする作品を作成する事は困難です。ですが病み上がりのリーダーを立てつつ、共演者各自が音楽性を遺憾無く発揮した演奏は、次回作に期待を抱かせるには十分でした。

 

オーディエンスの期待が冷めないうちにでしょう、次作「ウイ・ウォント・マイルス」が早くも10ヶ月後にリリースされました。作品について触れて行く事にします。
CD1曲目はマイルスのオリジナル、ジャン・ピエール。ロケーションは何と日本、西新宿特設ステージ、現在の東京都庁のある辺りです。新宿西口、旧淀橋浄水場跡地に60年代から高層ビルが建ち始めましたが、当時はまだ空き地が存在し、そこを利用し特設会場を設け、カムバックしたマイルスのコンサートを行うとは何とも大胆な興行企画です!実は筆者もチケットを購入し、聴きに行きましたが、オープンエアなステージなので観客席に座らずとも少し離れた所から十分に演奏を聴けたのを覚えています。翌日にも会場に足を運び、ちゃっかり離れた場所から傍聴しました。
期待に胸を膨らませた超満員の聴衆の前に、PEPEPE…と書かれた目立つ白い帽子を被ったマイルスが、体調悪そうによちよち歩きをしながらステージに上がってきました。メンバーに労られるように演奏し、しかもトランペットは全く鳴っておらずプスプス言い捲っていました。まず感じたのは「これは…大丈夫か?」、しかし彼を尻目にバンドは猛烈に、一丸となってバーニングしているではありませんか。初めて見るスターンの巨体ぶり、ロック・テイストとジャジーなフレージングの融合があまりに素晴らしく、釘付けになった事も覚えています。マイルスにファット・タイムというあだ名を付けられたスターン、その後ダイエットを行いましたが太り易い体質ということで体重管理を行い、以降来日中にも水泳等の運動を欠かさない徹底ぶりを見せ、体型をずっと維持しています。
前作でもその存在感を確認出来ましたがやはりステージは違います。斬新なフレーズとその切り口、アウト、インサイドを繰り返し、端正で滑舌良いピッキングによる連符を主体としたリックを交え、入魂のアドリブ・ソロには完全にノックアウト、更にバッキングに回った時のカッティングの妙、物凄いギタリストの登場です。
彼はバークリー音大後、パット・メセニーの紹介で76年ブラッド、スウェット&ティアーズに参加、その後ビリー・コブハムのバンドでも活動し、マイルスのバンドに参加します。彼からは「ジミ・ヘンドリックスのように弾け」と指示されたそうです。本作での演奏は全権を委任されたかの如く、自己の世界を躊躇なくディストーション満載のジミヘン・テイストで表現しています。


閑話休題、ジャン・ピエールの演奏に戻りましょう。冒頭ベースとドラムのハイハット、そしてパーカッションがクイーカを使ってテーマのメロディを提示、ベースがアクティブになった頃にミュート・トランペットとソプラノでテーマが奏でられます。ソプラノがユニゾンからハーモニーに回り、トランペットがハーモニーを吹いたりとシンプルなメロディに幅を持たせています。メロディの隙間ではリズム隊各々が的確なフィルインを入れますが、出しゃばり過ぎず、しかし個の主張は明確に行われています。先発ソロはマイルスのようですがあまり覇気があるようには感じられず、ここでは存在感が希薄です。体調不良に起因するのでしょうが、むしろリズム陣の繰り出す音に耳が奪われます。
その後ファット・タイムの登場、実にカッコ良い音色、フレージング、ピッキングのニュアンス、タイム感で存在感を誇示します。フォスターは比較的淡々とバッキングしますがマーカスやシネルのアクティブな事、バーニング振りが頂点に達したと判断したマイルスがプレイに被ってテーマを演奏します。
その後メロディを何度もプレイし、エバンスのソロが始まり、テーマのバリエーションを次第に発展させ世界を構築して行きます。加えてメンバーのアイデアをモチーフに用い、互いの音楽性に持ちつ持たれつ状態でアドリブを展開します。かなりの高みまで達していますが、一点気になるのは歴代のマイルスバンド在籍サックス奏者が実にタイムのほど良きところで、レイドバック演奏していましたが、エバンスはかなり音符のポイントが前に位置し、いささか軽い印象を与えます。同業者として彼のプレイには興味があり、フェイバリット・プレイヤーのひとりにも挙げられますが、以降の活動でもこのタイムに関しては変わらず、一貫性と言うよりもどこか緩いものを感じてしまいます。
ソプラノ・ソロの後半ではリズム隊を巧みに巻き込み、ラストテーマに上手く繋げています。エンディングは大きくリタルダンドし、聴衆の熱狂的アプローズを受けてFineとなりました。

2曲目バック・シート・ベティは「ザ・マン・ウイズ・ザ・ホーン」に収録のナンバー、本テイクのロケーションはニューヨーク、エイヴリー・フィッシャー・ホール。こちらは現在改称されデイヴィッド・ゲフィン・ホールとなっています。ここではまずマイルスの不調さがかなり解消され、トランペットの音色、フレージングに往年の輝きを取り戻しつつあるように聴こえます。とは言え日本公演の3ヶ月前の演奏なので、西新宿では体調がかなり下降していたのではないか、と想像出来ます。
リズム隊が繰り出すビートが実に心地良いのですが、マーカスの切れ味抜群のスラップ、そのまま曲のモチーフに用いられそうに高度な音楽性を湛えたベース・ワーク、スターンのスリリングにして挑発的なコードワーク、カッティング、これらががマイルスに刺激を与えたのでしょう、エネルギッシュなハイノートをヒットさせ、場面の活性化を図っていますが、それは聴衆の反応に的確に表れています。フォスターもマイルスのコンセプトに合わせ、説得力のあるプレイを連打し、新入り達とは一味違うバンドの「番頭」的な立場ならではの表現を行なっています。シネルとのコンビネーションも大変よく、縦横無尽に魅力的ラインを打ち出すマーカスの音楽性の高さに改めて感心してしまいますが、ピアニスト、ウイントン・ケリーの甥っ子は伊達ではなさそうです。
ここではエバンスは参加せず、マイルスのワンマン・オンステージ状態で演奏が繰り広げられました。

3曲目ファスト・トラック、前作ではアイーダというタイトルで演奏されていました。ロケーションはボストンのライブハウス、キックスです。
まさにこの当日ライブのオーディエンス録音を聴いたことがあリますが、ホールに響き渡る各々の楽器の音色、音像、セパレーション、バランス等いずれもが高い次元で成り立っており、マイルス率いる音響スタッフの実力の高さを感じる事が出来ました。カセットテープ録音でしたが、率直にCD音源よりも豊かで深いアンビエント音質であったと思います。
テーマ・メロディの譜割が幾分変わり、テンポもかなり早く設定されています。ここではマーカスのベース・プレイがバンドの要となり、半端ない推進力を提示、フォスター、シネルの打楽器隊も大健闘です。
短いマイルスのソロ後、ギターソロが始まります。存分にスペースが与えられ、思いの丈を延べた演奏は彼のスタイルそのものの流麗なプレイ、当然ですが現在の彼のギターテクニックの方が断然上にあり、ピッキングの粒だち、正確さは特筆すべきです。
練習に余念のない彼はニューヨークの自宅にいる時、朝早くから知り合いのギタリストやベーシストに電話をし、セッションの時間を共有出来るプレーヤーを探すそうです。要は練習相手を見つけ、自分に課している日々の課題を念頭に、スタンダード・ナンバーを弾き倒すのだそうですが、自身がとことん納得したところで伴奏者にソロを促し、自分はサポートに回ります。「Hey, this time is your turn」のような事を言いながら。共演者も彼と演奏するのなら大変な勉強になる事でしょう。可能ならばどんな事をやっているのか横から覗いてみたいものです。

その後テーマが提示され、ベースの猛烈なプッシュを従えたマイルスの雄叫びを挟み、再びギターソロへ、程よきところでスターンの勢いに乗じたマイルスが激しくブロウし、そのシャウト・プレイに促されパーカッション・ソロに突入します。ベース、ギターが茶々を入れたり、ドラムが呼応するようにリズムを刻んだり、グルーヴが戻ってきた頃にマイルス再登場、アグレッシブにプレイを展開、トランペットの音はもつれていますが音楽を創造したいパッションは十二分に感じます。ここでもマーカスの信じられない次元でのバックサポート、バンド一丸となったインタープレイが光ります。唐突にブレークし、短いパーカッション独奏があり、トランペットが締めの一発をヒットさせ、終了です。

4曲目は再びジャン・ピエール、同じく西新宿特設ステージからリフレインされています。各々のソロが短くフィーチャーされますが1曲目とは全く違ったテイストを聴かせています。その中ではスターンのアプローチが特に刺激的です。以降の彼のプレイも素晴らしいですが、幾分型にはまった感は否めず、この頃の自由奔放なアプローチはマイルのとの共演によって成し得たものに違いありません。

CD2の1曲目はジョージ・ガーシュインの名曲マイ・マンズ・ゴーン・ナウ、本作最長の演奏時間を有する、白眉の演奏です。かつてマイルスとギル・エヴァンスのコラボレーションによる作品58年「ポーギー&ベス」で取り上げた事がありました。

ギルの巧みなアレンジによるオーケストラ・サウンドの上で朗々と吹くスタイルですが、本作では斬新なアレンジによるコンテンポラリーなファンク・サウンドに仕上がりました。
個人的にはこのアレンジ、マーカスによるものでは、と睨んでいます。サウンドや意外性に富んだ構成、ベースパターンから判断しました。このテイクもボストン、キックスでの演奏です。
冒頭で聴かれるキーボードはマイルス自身によるもの、その後深いビート感を湛えたベースのスラップから曲が始まります。ミュートを施したメロディ奏はスペースをたっぷりと有し、フィルインを入れる者にとっては繊細さと大胆さの両方を併せ持たなくてはアプローチできず、卵の殻の上を歩くが如きセンスが不可欠です。イントロ部分ではフォスターのカラーリングに共感を覚えます。
「ポーギー&ベス」でのメロディ・プレイと比較すると、本テイクの方に枯れた味わいを感じますが、これはむしろ体調が万全ではない、ブランクに起因するものかも知れません。
バンプを経てマイルスはミュートを外しオープンでソロを開始します。フレーズの間に迫り来るフィルインの数々は芸術的な次元での合致度を感じさせます。
続くソプラノのソロ、この頃彼はセルマーのメタル・マウスピースを使用、全くならではのテイスティな音色を提示しています。スペースを取りつつ構築しますが深いビブラート、ロングトーン、細かなライン、その後ろで奏でられるフォスターによるスネアの連打、これは何というセンスに由来するのでしょうか?あまりにもカッコ良過ぎです。スターンの怪しげにまで妖艶なバッキング、ソプラノソロが頂点に達した時に、極自然にスイングのリズムにチェンジ、イヤ〜何とヒップなアレンジでしょうか。そしてエヴァンスにとってベストと言えるプレイに仕上がりました。
続くギターソロはテンションを落とす事なく富士山五号目からスタート、フォスターとシネルの繰り出すリズムのフレッシュにしてグルーヴィーな事と言ったら。
短くベース・ソロがあり、再びミュートを施したトランペットによるテーマに場面は変わりますが、ここでも打楽器隊によるサウンドの色付けが見事です。スイング・ビートによるヴァンプを経て、オープンでのトランペット奏にはリズム隊との一体化が聴かれ、ギターソロへ。ウネウネ、ウニウニと連符を駆使し、アウトしつつリズムセクションを巻き込みスターン・ワールドを展開します。
マイルが割り入るとすかさずトレモロによる伴奏にスイッチ、カメレオンのように柔軟に音楽に対処しています。フォスターのハイハットをアクセントにしたアプローチと共にトランペットが吠え、フレージングで用いたシングルノートを上手く利用しスイング・ビートのヴァンプに変化し、最後はマイルスによるピアノのクラスターが聴かれ、パーカッションの演奏で次第にフェードアウトです。

2曲目キックスは文字通りボストン・キックスでの演奏になります。レゲエ風のリズムによるイントロ、コンガをフィーチャーしスタートします。ミュート・トランペットが吹くラインはメロディにはある程度のモチーフが存在するようですが、あまりはっきりしません。スイングのリズムに違和感なくスイッチし、レゲエと交互に演奏されますがマーカスのグルーヴの見事さ、フォスターのトップ・シンバルとのコンビネーションが心地よく、思わずリズムを取りたくなってしまいます。
その後テナーソロが始まります。オットーリンク・メタルのマウスピースを使用したサウンドはテナーの王道を行き、個人的に大変好みの音色です。ここでもスイングとレゲエのリズムに何度も、そして全く難なく入れ替わりますがとてもスリリングです。クライマックスに達し、咆哮が聴かれ場面が次第に変わって行きます。おそらくステージ脇にセッティングされていたのでしょう、マイルスの弾くキーボードによるコードが要所に響き、場を活性化させています。その間もリズム隊は色々なアプローチを用い、スリリングで魅力あるバッキングを提供しています。
ギターソロが始まります。ディストーション全開でのウネウネ・フレーズを駆使した音色とレゲエ、スイングのリズムとのコンビネーションは耳新しく聴こえます。ギターの連符に挑発され、パーカッション、ドラムは異次元の扉を開けに掛かっているかのようにさえ思えます。ここぞという所でマイルスが切り込んで行きます。つくづく彼は良く音楽を解っているミュージシャンですね。
その後とうとう倍テンポのスイングリズムに成り代わります。実にヒップな演奏、ニコニコしながらドラムを叩くフォスターの顔が目に浮かびます。
そのままのスイングでエヴァンスのテナーが再びソロを開始、いや〜これは凄い世界に足を踏み入れました。スティーヴ・グロスマン、デイヴ・リーブマンの発するユダヤ・テナー・サウンドに引けを取らないテイストです。ここでもマイルスのコードが指揮系統として存在し、リズムやサウンドの変更を命令しているかのようです。

2022.01.28 Fri

Eric Dolphy at the Five Spot vol. 1

今回はEric Dolphyの代表作「Eric Dolphy at the Five Spot vol. 1」を取り上げたいと思います。

Recorded: 16 July 1961 at the Five Spot, New York City
Engineer: Rudy Van Gelder   Label: New Jazz   Producer: Esmond Edwards

as, b-cl)Eric Dolphy   tp)Booker Little   p)Mal Waldron   b)Richard Davis   ds)Ed Blackwell

1)Fire Waltz(Waldron)   2)Bee Vamp(Little)   3)The Prophet(Dolphy)   4)Bee Vamp(Alternate Take)

1960年代初頭にはジャズ界に新たな旋風が巻き起こり、卓越した才能を持った驚異的な新人が次から次へと現れました。米国の人材の無尽蔵とも言える豊かさ、底力を感じます。
このライブレコーディングは演奏の素晴らしさもさる事ながら、若き天才ミュージシャンEric Dolphy, Booker Little二人の邂逅を捉えたドキュメントとしても、大変に価値のある作品です。Dolphyは3年後にBerlinで無念の客死、Littleに至ってはレコーディングから僅か4ヶ月後に、尿毒症により23歳の若さで夭逝してしまいます。
そのLittleのプレイはClifford Brownの演奏を進化させ、奏法的にも、サウンド面でもより洗練させたスタイルを携えています。同年同月生まれのFreddie Hubbardも全く同じ立ち位置でデビュー、その後は破竹の勢いで活躍しました。Littleも間違いなくシーンを牽引するプレーヤーとなり得た事でしょうし、ふたりは良きライバルとして切磋琢磨に努めたと思います。
トランペッターとしてのLittleの演奏はフレージングのセンス、タイム感、トーン、ソロの構成、全てに於いて端正、非の打ち所がなく、それでいて決して枠内に留まろうとせず、更なる深い境地に至らんとするクリエイティブさを持ち合わせています。天賦の才能の成せる技に違いありませんが、23歳の若者にここまでの芸術性を開花させる米国音楽シーンの空気にも敬服してしまいます。
一方のDolphyは全く独自の音色、音の跳躍を駆使した驚異的なフレージング、時として動物の咆哮や人の話し声と思しきライン、こめかみの血管が切れそうなばかりのハイテンションを感じさせたかと思うと、ユーモラスなリラックスした雰囲気へと突然変貌する、ジキル博士とハイド氏の如き二面性を有するブローイング、Littleとのコンビネーションは相反し合い、互いのない部分を補いつつの絶妙のコンビネーションを提示しています。
同じ先鋭的アルト奏者Ornette Colemanには同様のベクトルを描くDon Cherryのトランペットが相応しいですが、DolphyにはLittleの他HubbardやWoody Shawのようなスタイリストが全く合致しています。
Eric Dolphy


Dolphyはこの時33歳、西海岸で音楽活動を開始した比較的遅咲きのミュージシャンです。28年6月Los Angeles生まれ、大学で音楽学を専攻しローカル・バンド、アーミー・バンドを経て58年Chico Hamilton Quintetに加入します。同年出演したNewport Jazz Festivalの演奏を映画化した作品「Jazz on a Summer’s Day」(真夏の夜のジャズ)でのHamiltonバンドでフルートを吹くDolphyの姿が、彼の初めての勇姿となります。


これ以前50年代で特に目立った活動はなく、そしてレコーディングも全くと言って良いほど残されておらず、20代修行時の彼のプレイを知る術は全くありませんでした。どんなミュージシャンでも同様であったように、ひたすら自己のプレイを研鑽する日々だったと思います。既に後年のスタイルを身に付けていたのか、だとすればいつ頃からか、前段階的なアプローチを聴かせる時期もあったのか、興味は尽きないところですが、貴重な音源が発掘され、05年にリリースされました。これまでにもCharlie Parker, John Coltrane, Miles Davisを始めとするジャズジャイアントの未発表レコーディングを、まるでジャズ史のミッシングリンクを解消するべく、数多くをアルバム化したRLR Recordsから「Clifford Brown + Eric Dolphy – Together: Recorded Live at Dolphy’s Home 」

実はBrownとDolphyには個人的な交流があり(仲が良かったそうです)、54年6月か7月にClifford Brown – Max Roach Quintet(BRQ)のテナー奏者のオーディションを、何とLAのDolphy自宅で行いました!この作品はその時の演奏を私家録音したもので、メンバーはBrown, Roachほかレギュラー・メンバーのピアニストRichie Powell、ベーシストGeorge Morrowに加え、オーディションを受けたHarold Land、そしてDolphyのアルトサックス!なかなかに流麗なピアノを弾くBrownのプレイも収められた貴重なドキュメントです。
Brownのトランペットは全く当時の絶好調ぶりを聴かせますが、Dolphyに至ってはCharlie Parker直系のBe-Bopな演奏です!その後のプレイの片鱗はフレーズの片隅にほんの少し垣間見ることが出来、彼の演奏と辛うじて判断可能ですが、実に意外なスタイルです。この演奏内容から50年代中頃までに一度Parker的なスタイルを通過〜完成させていたと言えましょう。
艶やかではあるけれど穏やかな音色、タイム感、グルーブ感、フレージングの流暢さ、ソロの構成力、歌心を十分に披露していますが、どちらかと言えば「ごく普通」なアルト奏者、60年以降のギラギラとした、痛いほどに強烈な個性の発露、咆哮の如き発音を全く聴くことは出来ません。この時点では寧ろBRQのサックス奏者として相応しいプレーヤーとも感じましたが、Brown夫人が「彼らはテナー奏者を探していてアルト奏者ではなかったので、Dolphyの採用は考慮されなかった」と発言しています。しかしこのオーディション時にHarold LandではなくDolphyが採用されていたとしたら、BRQは全く違う演奏を展開していたでしょうし、さらにはジャズ界にその鬼才ぶりを圧倒的に発揮するEric Dolphyの存在はなかったかも知れません。モダンジャズ黄金期50年代に仕事の無い不遇な時期を過ごしたからこそ、ハングリーさを糧に自身の演奏スタイルを徹底的に見つめ直し、誰でも無いワンアンドオンリーなDolphyスタイルを構築したのですから。
Clifford Brown

自宅セッションから6年後、初リーダーアルバム60年4月録音「Outward Bound」では明らかに自己のスタイルを携えてのデビューとなりました。Brownとの共演時とは全くの別人です。アルトサックスは元より、バスクラリネットやフルートの修得度合いも半端なく、彼との演奏時には既にサックス以外の持ち替えも行なっていたに違いありませんが、有り得ないほどに高度な楽器テクニックを有したプレーヤーがNew Yorkジャズシーンに忽然と現れました。エイリアン襲来の如しです!そして僅か1年後の本ライブには更なる成長を遂げたプレイで他を圧倒します。一体何が彼をここまでの高みに持ち上げたのでしょうか?
Outward Bound / Eric Dolphy

サイドマンについても触れてみましょう。ピアニストMal Waldronは朴訥としてダークな雰囲気を湛えた演奏を聴かせます。56年11月録音の初リーダー作「Mal-1」は代表作にして、アレンジと本人を含めたメンバーのプレイが光る名盤です。
Mal Waldron / Mal-1

彼はFive Spotライブの直前、Dolphyを迎えて6月27日にアルバム「The Quest」を録音しています。こちらにはFire Waltzの初演が収録されていますが(かなりゆっくりしたテンポです)、他全員がソロを取っているのにテーマ以外、何故かDolphyの出番がありません。ライブでのプレイはその鬱憤を晴らすべくの大熱演とも聴こえます。
The Quest / Mal Waldron


ベーシストRichard Davisはジャズ界最重要ベーシストの一人、本作でも堅実にしてアグレッシブなプレイを展開しています。Dolphyとは以降も共演し、63年「Iron Man」64年傑作「Out to Lunch」の2作に参加しています。
Richard Davis


ドラマーEd Blackwellも堅実にして穏やかな安定感があり、バンド演奏を時として包み込むように柔らかくサポートしつつ、ソロイストを鼓舞する職人的なプレーヤーです。Ornette ColemanやDon Cherryとの長年に渡るコラボレーションには、彼らの深い信頼関係を感じます。
Ed Blackwell


Rudy Van Gelderは言わずと知れた名レコーディング・エンジニア、彼の存在無くしてはジャズアルバムは成り立たないほど膨大な数の録音を行なっています。本作はライブ録音であるにも関わらず、各楽器の的確な音像感、豊かな音色、セパレーションのクリアーさ、ステージのアンビエント、トータルなバランス感、そしてジャズ演奏の何たるか、その醍醐味を知り尽くした者だけが実現出来るクオリティのレコーディングを遂行しました。完璧なまでに素晴らしい録音です。
Rudy Van Gelder

それでは収録曲について触れて行く事にしましょう。1曲目魅惑的ナンバーFire Waltz、演奏開始前のオーディエンスの雑談、ミュージシャンの(?)笑い声、ピアノの試し弾きがライブの臨場感を物語っています。徐にピアノのイントロが開始され、ブレークの後にテーマが演奏されます。アルトサックスがメロディを吹き、トランペットを含むリズムセクションがそれに答える、コールアンドレスポンス形式です。それにしても何というDolphyの音色でしょうか!太く、深く、コクがあり、妖艶な色気の振り撒き具合から、アルトサックス史上最強トーンの一つです!ソロは出だしから猛烈さを伴い、最低音から最高音までを全くムラなくコントロールしつつ進行します。冒頭のたっぷりした8分音符のバウンス感にはParker以前のスイングジャズのグルーブを感じました。16分音符を駆使したラインの激しさは、日の目を見なかった50年代のまさに裏返し、オルタネート音、フリークトーン、グロートーン、フラジオ音、タンギングの正確さ、言葉を喋っているかの如き発音、反する小粋な鼻歌的メロディ、技のデパート状態で、Dolphyミュージックのショーケースですが、押し付けがましさを感じさせないのは、プレイがスポンテニアスだからに他なりません。トランペットがバックグラウンド・フレーズを吹きますが、1回だけでなくアルトソロの後半部分でも聴きたかったです。
ライブ全体に言えますが、丁々発止のインタープレイはあまり行われず、リズムセクションの淡々としたバッキングが持続します。このクールさがあってこそDolphyワールドが映えるのだと、解釈しています。例えばRoy HaynesやJaki Byard、Ron Carterたちが起用されていたならば、多様なインタープレイが展開されたと推測できますが。
トランペットソロに続きます。こちらの音色もブリリアントでダーク、深さを持ち合わせ、アグレッシブでテイスティ、素晴らしい楽器の鳴り方を示し、4ヶ月後に他界してしまう演奏者のトーンとは毛頭感じさせません。フレージングではコードに対するアプローチ、用いられるスケール、7thコードが連続する4度進行への的確な対応、またテンションに独自なものを随所に発揮し、これまたインプロバイザーとしての絶頂期を聴かせています。
Booker Little


Dolphyのタイム感が幾分前の方に設定されていたのと比べ、Littleはリズムのスイートスポットに目掛け、実にタイトにプレイしており、Freddie Hubbardにも比肩し得る王道を行くタイムの取り方と感じます。BlackwellのドラミングがDolphyのソロ時とはアプローチが異なるのはソロイストのフレージング、タイム感ゆえ当然だと思いますが、Waldronの終始変わらぬバッキングが呪術的にさえ聴こえて来るのが面白いです。底辺を支えるDavisの安定したベースワークがあってこそですが。
ピアノソロはそのままバッキングの延長を聴かせる、自身のオリジナルに対して相応しいアプローチを展開します。訥々として一聴Waldronと分かるテイストを発するプレイは、日本のジャズファンにもアピールし、多くのファンを獲得しました。2年間レギュラーで伴奏を務めた亡きBillie Holidayに捧げた名曲Left Aloneは、彼の代表曲となりました。
Mal Waldron

2曲目はLittleのオリジナルBee Vamp、急速長のテンポ設定はバンド、オーディエンスへの良いカンフル剤になり得ます。テーマをトランペットが取り、バスクラリネットはメロディとリズムセクションのアンサンブルを行き来し、楽曲のメリハリを聴かせます。ソロに入ってもバスクラはリズム隊と行動を共にしていますが、低音楽器特有の伴奏感を上手く活かしていると思います。
先発トランペットはブリリアントにしてダイナミック、滑舌の良い8分音符から成るラインは知的センスを併せ持ち、スイング、スピード感が抜群です!高音域を吹いた時に若干オフマイクになるので、演奏中に多少の動きを感じますが、ひょっとしたらVan Gelderのマイキング・テクニックが優れているので、かなり動き回っているのを補正しながら録音しているのかも知れません。
続くDolphyのバスクラソロ、いや〜初めから飛ばしています!アルトサックス同様に物凄い音色、音圧感、そして音域の広さを物ともしない縦横無尽で圧倒的なテクニック、この難しい楽器をここまでコントロール出来るサックス奏者を古今東西知りません!こんなブロウを聴かされると、感動を通り越して笑いが止まりませんね(笑)。Littleのバックリフが随所に入り、演奏を鼓舞します。
ピアノソロはパターンを持続させ、次第にストーリーを構築して行きます。ちょっと転びがちなラインは危なげよりむしろ味わいを感じさせ、ベースラインとの合致を聴かせます。その後短いベースソロがあり、ラストテーマを迎えます。エンディングで聴かれるバスクラの咆哮はまるで馬のいななきのように聴こえます。
Eric Dolphy

3曲目Dolphyが書いたナンバーThe Prophet、この曲はDolphyの作品Outward BoundとOut There2作のジャケット・デザインを手掛けたRichard “Prophet” Jenningsに捧げられました。
Out There / Eric Dolphy


独創的なメロディラインと曲想はDolphyのオリジナリティを誇示しているかのようです。先発アルトソロはここでも淡々としたリズムセクションの伴奏を得て、Dolphyの世界を打ち立てています。とは言えソロ途中から倍テンポになり、このまま突き進むかと思いきや短めに終え、再び無欲恬淡に戻り、Dolphyは泣きながら話しているようなプレイを繰り出し、再度リズム隊が活性化します。Littleのソロは雄々しさを伴ってスタート、アルトソロ時と同様にリズム隊は多少の起伏を持たせつつ伴奏を務め、トランペットは豪放磊落にアドリブを展開して行きます。
Waldronのピアノソロに関して、何かで読みましたが、まるでモールス信号を打ち続けるかのようなプレイ、ここでもその独特さを提示しています。続くベースソロでは存分にピチカートを聴かせます。程なくラストテーマを迎えますが、この1曲で21分以上にも及ぶ演奏時間は、いくらライブとは言え当時ではあり得なかったと思います。
Eric Dolphy


4曲目にはBee Vampの別テイクが収録されています。採用テイクよりも演奏時間が短く、幾分グルーブが重く聴こえるプレイです。バンド自体の推進力、スピード感、各ソロの勢い、コンビネーション全てに関して本テイクの充実度を見ることは出来ません。想像するに何か演奏に支障があったのか、もう一度プレイしようとなったのでしょうが、いかにもテイク・ツーのクオリティを呈してしまいました。インプロビゼーションに各人新鮮さを欠いているように聴こえます。バンド全員この演奏は世に出して欲しくはなかったのでは、とも思いました。

2022.01.05 Wed

Making Music / Zakir Hussain

今回はタブラ奏者Zakir Hussainの86年録音作品「Making Music」を取り上げてみましょう。John McLaughlin, Jan Garbarek, Hariprasad Chaurasiaらを迎え、独自の世界を表現した素晴らしい作品に仕上がりました。

Digital Recording, December 1986 at Rainbow Studio, Oslo
Engineer: Jan Erik Kongshaug   Produced by Manfred Eicher   Label: ECM

tabla, perc, voice)Zakir Hussain   flutes)Hariprasad Chaurasia   ts, ss)Jan Garbarek   ac-g)John McLaughlin

1)Making Music   2)Zakir   3)Water Girl   4)Toni   5)Anisa   6)Sunjog   7)You and Me   8)Sabah

まずはZakir Hussainについて、簡単に来歴をご紹介しましょう。1951年3月9日インド・ムンバイ出身、幼い頃よりインドの伝統音楽に触れ、父が著名なタブラ奏者であったため、多くを学び育ちました。12歳から北インドのミュージシャンたちと演奏し始め、シタール奏者Ravi Shankarのサポートメンバーを行うようになり、70年渡米、New Yorkでインド音楽に傾倒していたJohn McLaughlinと出会い意気投合し、Shaktiを結成します。バンドは3年ほど活動し、3枚のアルバムと99年再結成後さらにライブアルバムを含む5枚を発表します。豊かな音楽性を持つギター界の超テクニシャンMcLaughlinとタッグを組むくらいですから、Hussainの才能、超絶技巧ぶりは推し計れると言うものです。
A Handful of Beauty / Shakti with John McLaughlin

北インドの伝統音楽Hindustani classical music(同地のイスラム王朝宮廷で発展した北インド古典音楽)を基盤としたHussainのスタイルですが、柔軟なプレイスタイルを持ち合わせており、海外ミュージシャンともジャンルを問わず多面的に共演しています。Mickey Hart(Grateful Dead), Van Morrison, George Harrison, Bill Laswell, Bela Fleck, John Handy, Pharoah Sanders, Charles Lloyd, Dave Holland…参加した彼らのアルバムでは、先鋭的な演奏を繰り広げています。
同じく多面的なタブラ奏者として、Miles Davis 70年代初頭の作品「On the Corner」「Big Fun」「Get Up with It」、Dave Liebmanの作品「Lookout Farm」「Drum Ode」などに参加したバングラデシュ出身Badal Royが先輩格としてその名が知られています。
Badal Roy

Royの場合はタブラをパーカッションとして演奏し、楽曲にカラーリングを施すプレイがメインと言えます。Hussainのタブラ演奏はカラーリングは勿論のこと、一連のパーカッションを用いつつリズムを提供する、どちらかと言えばドラマーとしての立ち位置にいます。Shaktiでの猛烈なグルーヴ、スピード感はバンドの要となり、McLaughlinの人間技とは思えないハイパーテクニックなギター・プレイを確実に支え、プッシュし、驚異的に正確なユニゾン演奏、アンサンブル、インタープレイを聴かせました。
Zakir Hussain

かつてのインドの宗主国、英国出身のMcLaughlinはHussainとShaktiでの共演後にも、同じくインド・ムンバイ出身のパーカッション、ドラム、タブラ奏者であるTrilok Gurtuをメンバーに迎え、演奏活動を開始しました。
Trilok Gurtu

Gurtuも驚異のテクニック、そして誰も思い付く事のないユニークなアイデアを駆使した”ハンド・ドラマー”、McLaughlinの91年録音作品「Que Alegria」でその音楽性を発揮しています。
筆者も出演した92年のドイツ・メールス・ジャズフェスティバルにて、GurtuがメンバーのMcLaughlin Trioは素晴らしい演奏を聴かせました。コンサート翌日、ホテルの朝食会場で前日の出演者が勢揃いしています。McLaughlinが不在だったからかも知れません、Gurtuが唐突に、しかも誰かに話しかける風でもなく、「John(McLaughlin)のバンドはオレに好きに演奏させてくれない!」と大声で叫ぶではありませんか!昨日のトリオの演奏は緻密にして大胆、3人のコンビネーションが素晴らしく、彼自身も演奏に納得しているはずと、疑う余地がなかっただけに驚きました。取り分けGurtuの奇抜なアイデア満載のプレイ〜鈴の束を鳴らしながらそのまま水を張ったバケツにゆっくりと沈み入れ、特殊な音を発生させる等〜全く自由に演奏していると感じていました。「オレはもうJohnのバンドを辞める!明日、いや今日辞める!」と連呼していたのも印象的で、何をもってして好きに演奏出来かったのでしょうか?一体彼は何が言いたかった、したかったのでしょう?でもその後もGurtuはMcLaughlinのバンドに在籍していたと記憶しています。単に当夜の自分の演奏が気に入らなかっただけなのかも知れませんね。
Que Alegria / John McLaughlin

同地出身、同年齢のHussain, Gurtuふたりは全く独自の音楽性を湛えた打楽器奏者、Hussainはメインにタブラを用い、求道的にグルーヴを極めようとするリズム・マスターで、Cubaのラテン・パーカッション奏者に同じテイストを感じた事がありました。Gurtuは宙を舞うが如き自由な発想によるカラーリングの達人、Brazil出身のNana Vasconcelosに近いテイストを覚えます。McLaughlinのミュージシャン選択に対する深い造詣を感じました。
John McLaughlin

フルート奏者Hariprasad Chaurasiaは38年生まれインド出身のプレーヤー、サウスポーに楽器を構えて演奏します。Hussain同様に北インドの伝統音楽Hindustani classical musicを基盤とし、母国を中心に演奏活動を行っていますが、The BeatlesやGeorge Harrisonのレコーディングに参加しています。彼の演奏するフルートはBansuriと言う竹製のインド原産楽器です。一般的なフルートのように西洋的な合理的メカニズムを持たず、空いた穴を指で押さえるだけの、いわゆる横笛なのですが、これをChaurasiaは自在に、HussainやMcLaughlinに引けを取る事なく実にテクニカルに、しかも情緒たっぷりに演奏しています。実際13年にはBansuriの第一人者、音楽的導師、教祖(Guru)としての彼の半生を描いたインド国立映画開発公社制作のドキュメンタリー映画、その名もBansuri Guruが上映されました。
Hariprasad Chaurasia

ChaurasiaとHussainの全編デュオによる作品「Venu」が89年リリースされています。本作とは全く異なる、彼らのルーツであるインド音楽をとことん演奏したアルバム、熱烈なファン以外はなかなか一枚を通して聴くのは難しいかと思いますが、むしろ普段演奏しているこのスタイルからよく本作のようなプレイ、アプローチが表出されたのか、その方にむしろ感心してしまいます。
Venu / Hariprasad Chaurasia-Zakir Hussain

テナー、ソプラノ・サックス奏者Jan Garbarekは47年3月Norway Oslo生まれ、14歳の時にたまたまラジオで聴いたJohn ColtraneのCountdownに衝撃を受け、サックス奏者を志しました。初期にはColtraneの影響からかアヴァンギャルドな演奏を聴かせましたが、次第に自己のスタイルを確立し、出身地であるScandinaviaやインド音楽に影響を受け、近年は極力インプロヴィゼーションを排した耽美的な演奏を展開しています。彼の最大の特徴はそのあまりにも個性的で美しいサックスの音色にあります。同じサックス奏者として、徹底的なトーンに対するこだわりを、痛いほどにまで感じます。自身のグループによる来日公演をジャズクラブで聴く機会がありましたが、テナー、ソプラノともに素晴らしい音色、プレイに酔いしれた覚えがあります。フレージングやバンドとのインタープレイにも高い音楽性を認めることが出来ましたが、何よりもそのトーンが支配的で、音楽の全ての事象に優先するが如き演奏、サックス奏者としての一つの理想とイメージしています。本作と同じECMレーベルからリーダー作、サイドマン含めて実に多数の作品を発表しています。プロデューサーManfred Eicherも彼に対する思い入れが強いのでしょう、作品番号には切りの良いナンバー、ECM 1500などが用いられています。やはりレーベルを代表するKeith Jarrettの諸作にもこの傾向が見られるのは、当然のことでしょう。
Jan Garbarek

それでは演奏内容について触れて行く事にしましょう。1曲目はアルバム・タイトルでもあるHussain作のナンバーMaking Music、その名の通りメンバー4人で音楽を創り上げています。
冒頭アコースティック・ギター(以降ギター)、のアルペジオに続きフルートが魅惑的な音色で演奏します。そのうしろでドローンのように流れているのはシタールのようにも聴こえますが、タンブーラ(形はシタールに似ているがフレットがなく、開放弦を弾く楽器)かも知れません。時折ギターのアルペジオが加わり、フルートのラインに抑揚が付き始め、音量にもダイナミクスが施されつつ展開し、落ち着いたところでおもむろにタブラがリズムを刻み始めます。パーカッション奏者の音色の決め手にはテクニカルな部分も関係しますが、素手で演奏する場合その人自身の手の形、掌の肉付きがかなりの要素を占めるという話を聴いたことがあります。Hussainには生まれ持っての資質を感じますが、手そのものが楽器なのです。
ギターとタブラの絡み具合が密になった頃に、ソプラノサックスとフルートが織りなす美しくも独創的なメロディが奏でられます。McLaughlinはバッキングを止めソロプレイに突入します。それにしてもギターのピッキングのあまりの絶妙さは一体どうなっているのでしょう?そこから来る猛烈な滑舌の良さには空いた口が塞がりません!人類史上最もピッキングが巧みなギタリストとして、すでにギネスブックにその名が掲載されているかも知れませんね(笑)!

Shaktiで鎬を削ったふたりの演奏、自然発生的でいながら音楽的に超ハイパー、何かモチーフが存在するのか、前もっての打ち合わせがあるのか全く分かりませんが、まさに阿吽の呼吸、恐るべき32分音符ユニゾンの嵐!McLaughlinのフレージング、歌い回し、その傾向を知り尽くしているからこそ寄り添い、合わさることが出来るのでしょう。時折Hussainのギターフレーズの読みが微妙に外れるところが、まさしく即興演奏の証であると思います。いずれも標高がインド北部のヒマラヤ山脈並みの幾山々を経てギターソロが終了、McLaughlinは再びバッキングに退き、続いてフルートのソロ開始です。いや〜この方も超絶技巧、パッセージの速さ、スピード感、滑舌、ベンドやグリッサンド、そしてダブルタンギング!単なる横笛をこれだけ巧みに演奏するとは信じられません!Hussainとのコンビネーションも長年の共演が成せる技、こちらもありえないレベルのユニゾンを、全く、さりげなく披露しています!

Garbarekのソプラノソロに続きますが、彼も出だしでダブルタンギングを用いているように聴こえます。ふたりは恐らく本作が初共演、ゆえに手の内が読めないHussainはGarbarekのフリーキーなプレイに放置の姿勢を示しましたが、すかさずChaurasiaが割り入り、Garbarekのダブルタンギングと合わさり後半ソロ第一手を開始します。トリル・フレーズからギターを巻き込んだ32分音符大ユニゾン、第二手ではダブルタンギングを駆使したフレージングでHussainを刺激し、第三手ではコール・アンド・レスポンス作戦を選びました。さすが互いを知り尽くした間柄、先ほどのフレージングの何倍もインパクトがあるフレーズを繰り出したからか、さすがのMcLaughlinもここでは傍観せざるを得ないのでしょう、バッキングの手を休めています。インド勢ふたりの余人の介入を許さないデュオ・プレイ、これはもはやチョモランマ越えが確実です(笑)!ここで行われたHussainのレスポンス、特に低音域での動きの巧みさには舌を巻いてしまいます(ダブルタンギングだけに〜笑)!その後のGarberekのソロではHussainと、しっかりコミュニケーションが取れましたが、Chaurasiaが割り込むように参入、McLaughlinも加わりラストのひと締めをHussainに促すかのように煽り、彼も全く相応しく対応します!おそらくインド音楽の音階、旋律を元にしたフレージングなのでしょう、その応酬がジャズ的なフレーズをいつも耳にしている自分には実に新鮮に響きます!
タブラとはこんな音まで出せるのか、と心から感心してしまうほどの壮絶なアプローチをその後も続け、ラストのアンサンブルに繋がります。
Making Musicとは言い得て妙、ジャズが互いの音を聴き合って会話をするが如く対応するものであれば、この演奏はまさしくJazz以外の何物でもありません。

2曲目はMcLaughlinがHussainに捧げたナンバー、その名もZakir。ギターの慈愛に満ちたイントロに続きChaurasiaがテーマを奏でます。実に美しいメロディの佳曲、1曲目では壮絶な演奏を聴かせた彼ですが、本質はこの曲で聴かれるような優しく素直な人柄なのでしょう。Garbarekがテナーでソロを取ります。ラインにインドらしき音階を見出せますが、これは前述のように彼の音楽性に内包されたスタイルの一つです。佳境を迎えた辺りでテナーに被さるようにフルートが加わります。ゆっくりと時間をかけて音楽が収束して行き、ギターがひとり残りアウトロをプレイしてFineです。


3曲目Water GirlはHussainの曲、泡が水中から現れ、弾けるかのような効果音を狙っているのでしょうか。インドの伝統的な民族音楽を感じさせるメロディライン、日本の民謡にも通じたテイスト、多重録音によるフルートが祭り囃子を奏でているが如しです。Hussainはガタム(土でできている壷、手のひらや指でたたく)を中心にプレイしているようです。

4曲目Toni、ギターとテナーがゆったりとラインを奏でます。ふくよかで重厚なテナーの音色は実に魅力的です。他楽器に比べて録音の関係か音像が出過ぎているのが玉に瑕ですが。低音域に対比するかのようにフルートが高い音域でプレイし、ギターが慈しむようにソロを取り、再びテナーが登場し曲が終わります。ずっとHussainの音が聴こえていませんでしたが、エンディング、最後の最後に鈴を、しかも身を潜めるように鳴らし、演奏に加わっていました!殆ど楽曲提供のみの参加という事で、これは大人の対応と感じました。

5曲目Anisaは本作中もう一つのハイライト、Hussainのタブラ・プレイを大フィーチャーした自身のオリジナル。ギターとソプラノが可愛らしくも哀愁を感じさせるメロディをプレイ、その後世界を一新させるかのようにタブラが登場、リズムを刻み始めます。様々な音が鳴り響く中、次第に熱をおび、超絶技巧をもって展開されます。すると突然Hussainが声を発します。自らの叩くタブラのフレーズを巻舌を用いつつ再現しているではありませんか!ヒンズー語が元になっているのでしょう、演奏者は自分のプレイするフレーズを必ずしも歌えるとは限りませんが、このレベルのプレイを口で表現するとは!Hussainは信じられない次元の達人です!こんな演奏は今までに聴いた事がなく、大きな衝撃を受けました。その後もフレーズを歌いながらユニゾンでプレイを展開、こちらも超人技です!確実に楽器をコントロールするテクニック、表現力、グルーヴ感、ストーリー性、タブラという楽器を極めたこちらもGuruと言えるでしょう。ラストテーマは可憐にメロディを一節(ふし)演奏してFineです。
John Coltraneのアルバム「Crescent」にThe Drum Thingというナンバーが収録されていますが、テーマ後その名の通りドラムがソロを演奏し、他のソロはなくラストテーマを迎えます。本曲AnisaはThe Tabla Thingと名付けても良いでしょう。
Crescent / John Coltrane

6曲目Sunjogは冒頭Garbarekのテナーがダイナミクスを徹底させてブロウします。ギターが続き、些か怪しげなムードを醸し出し、フルートがギターを伴って演奏、徐にそのままギターによるパターンの提示、変拍子(14拍子が基本)のエキゾチックなムードを湛えたナンバー、Hussainの作曲手腕が冴えています。その後ソロを各人トレードしつつ、Hussainが巧みにバックアップします。ソロイストも互いのフレーズを尊重し合い、ソロのスパンが次第に短くなり、最後は潔くエンディングを迎えます。

7曲目はHussainとMcLaughlinの共作によるYou and Me、速いテンポでギターとタブラが会話を行うが如くプレイを聴かせます。ダイナミクス、アクセントの用い方が実にスリリングです!
本作での演奏はZakir Hussainと言うプレーヤーの持つ様々な音楽性に、オリジナルを中心とし、スポットライトを当て、偏る事なくフラットに発揮させようとしており、メリハリのある構成に仕上がっています。ただ、どうしてもHussain=Shaktiというイメージを払拭するのは難しく、敢えて触れない方向を選んだようにも推測していますが、このデュオ演奏にはShakti色が現れていると感じました。


8曲目ラストを飾るのはHussainのナンバーでSabah。そう言えば本作収録曲のタイトルには定冠詞、不定冠詞が全く付いていません。恐らく人名が中心なので偶々なのかも知れませんが、この事から作品全体にどこか無機的な印象を与えます。にも関わらず、演奏自体があまりにもヒューマンな事が面白おかしく、こちらは意図的とも感じました。
本作中最も異色なサウンド、一体どこまでどのように決め、打ち合わせをしたのか気になるところです。ユニークなテーマを繰り返しプレイし、次第にFade Outしますが、その後の展開が大変気になるところです。含みを持たせてアルバムのクロージングとしました。